奥平信昌が活躍し、織田信長・徳川家康連合軍が武田軍を破った長篠の戦いを江戸時代後期、復古大和絵絵師・宇喜多一蕙が描いた。現在は屏風となっている部分には長篠の戦いで奥平家が勝利を収める要因となったエピソードが描かれている。色とりどりの色彩と緻密かつ繊細な描写は復古大和絵派の洗練された技法が垣間見れる。宇喜多一蕙は豊臣家五大老の一人、宇喜多秀家の七代末裔と言われている。
江戸時代中期に京都で活躍し、近年「奇想の画家」のひとりとして注目を集める長沢芦雪。円山応挙を師とし、近世画人の中でも筆墨の名手として知られているが、この作品は筆ではなく指や爪、掌を用いて描いた指頭画(指墨画)である。写生画ではなく新しい境地を開こうとした作品。朱文氷形印「魚」の右上部分の欠損から寛政年間後期の作であることわかる。
画面下部から上方に向かって奥行きが作られ、濃淡のをなすのは本図自のもの。山間の渓谷を下って海に注ぐのは富士川(ふじかわ)だろうか。山雪にも清見寺近くに興津川(おきつ)のある富士三保松原図屏風(個人蔵)があるが、このように大きな川が描かれた富士山図は珍しく、蕭白が新味を加え続けていることがわかる。海上には帆掛け舟・手漕ぎ舟・係留された舟の各群れがほぼ交替で配され、手前の浜には塩田作業の二人、東海道の往来には驢馬(ろば)のように小さな馬に乗る人や天秤棒を担ぐ人も見える。清見寺の伽藍や石段は直線を多用してくっきりと表され、境内には掃き掃除または砂利をならす人も描かれている。堂々たる構図から細部まで一部の隙もないが、日本の風景という風情が薄れている感もある。
仏間右側の本尊は亀姫が念持仏としていた薬師如来像(室町時代作)、中央に開祖三江紹益和尚木像を安置、左側に信昌(久昌院殿)と亀姫(盛徳院殿)の位牌が祀られている。
方丈西側にあり、渡り廊下でつながれている。十二畳台目と八畳台目の座敷がつくられているが、主室となる十二畳台目の座敷には西南隅に二畳の上段の間を設け、花頭窓の付書院になっている。またこの座敷の北隣には三畳台目の小間の茶室があり、この席を俗に「遠州別好ノ席」と呼ぶ。点前座の中柱は大きく歪んだものを使い、床前正客の座の天井は珍しい舟底型の化粧屋根裏にするなど、天井、間取り、入口など複雑で非常に変化に富んだ席となっている。書院、茶席にこの様な設備が施されたのは、奥平家代々の大名の墓参の際に茶でもてなすためであっただろうと考えられている。
三江紹益和尚の鐘銘により、寛永四年(一六二七)信昌の十三回忌にあたり、四男大和郡山城主松平忠明が財を施し、三江が「治工に命じて一鐘を鋳成し、匠士に命じて鐘楼を築成した」とある。当院建造物の中では最も資料が確かで、建物の年代を考察する上で基準となるものである。